9a9aab_7ccbb26651c44454902f7eb032ca8ae7~mv2
9a9aab_410a1aa7bf584ea78cbc2c3511cae43e~mv2
Viva Santana!
カルロス・サンタナはそもそもの始まりをこう振り返る
「その日、僕らは代役としてサウサリートの公園で演奏していた
コンガとギターでね そしたらどこかの人にこう言われたんだ
"君らのことがピンク・セッションに載っているから見てごらん"」
ピンクセッションとはサンフランシスコ・クロニクルの日曜版の
エンターテイメント・ガイドのことで、その中でジャズ評論家で
あり、コラムニストでもあるラルフ・J・グリーソンが当時
アメリカのミュージック・シーンで最も活気があったといわれる
ベイ・エリアから期待の新人を紹介していたのが、そのリストの
トップにあったのが" SANTANA "だった「僕らは早速、彼のコメントを読み始めた」とカルロス
「彼によれば、僕らには未知の要素があり、かなり伸びる素質を持っているということだった それで思わず
皆でこう言ったんだ" 未知の要素 って何だい " " さあね "とのかく僕らにはそれがあるってことさ "」
9a9aab_7c3ff642e56d41b98f161af281c621eb~mv2グリーソンが彼らの名前を挙げたのは正しかった
ジャズの歴史家でもある彼は、カルロスが尊敬するミュージシャンの一人である
マイルス・デイビスの親友でもあり2~3年の後にはヤン・ウェナーがロックン
ロール界に刺激を与えようとして作った地元の若者文化の雑誌『ローリング
ストーン』の発行にも手を貸している
SANTANAと同じようにグリーソンも先駆者的存在であり、ほかの人には
ない独創的で感情豊かな音楽性を持っているのだ
「嬉しかったね だってマイルス・デイビスとそれほど親しい人が高校を出た
ばかりの僕らに対し何かあると認めてくれたのだから これは星占いなんかとは全然違うものさ、それで" 僕らは特別じゃないか "って思うようになったんだ」そして今日まで「あの時の感激はずっと忘れない」
とカルロスは言う

カルロス・サンタナはメキシコのオートランで3世代にわたるプロミュージシャンの家庭の7番目の子供の一人として1974年7月20日に生まれた マリアッチのヴァイオリニストだったホセ・サンタナは息子が5歳の時にヴァイオリンを教え始めたが、何年かして家族が
ティファナに映った後、カルロスはヴァイオリンをギターに代えた
9a9aab_15532aa7bdac488aafc0ef511dfecaac~mv2
当時ティファナで聴くことのできたアフロ・キューバン・ミュージックのハリウッド版に、さほど惹かれなかった 彼はむしろ
B.B.キングからチャック・ベリーといったブルースの巨匠たちにあこがれた
1960年カルロスは13歳の時に両親とともにサンフランシスコに移ったが、まだ1年ばかりはひっそりと
地元のバンドで演奏していた

数年後、彼はサンフランシスコのミッション・ハイスクールに入り全く別の世界を見い出した
本質的にはブルース奏者であるが、だんだんとTボーン・ウォーカーやサウンダース・キング( 彼はカルロスが
デボラ・キングと結婚したことでカルロスの義理の父親になる )のようなR&Bのパイオニアたちの演奏に
惹かれるようになったのだ そして彼はロック界のどんな出来事にも匹敵するほどの意味を持つスタイルの
革命をもたらした60年代のジャズの躍進にも興味を持った
ジョン・コルトレーンやマイルス・デイビスといった疲れを知らない音楽の探検家たちが想像力の源になったのだ
また始めてカルロスは、テイト・プエンテ、レイ・バレット、エディ・パルミエリといったサルサの巨匠たちの
素晴らしいラテン・リズムを耳にし素早く吸収した

「とても素晴らしい重みのある音楽だった」と彼は振り返る
「アフリカからキューバ、プエルトリコの堂々とした前向きのある要素を感じさせるものだ」アフロ・キューバン
ミュージックへの思い入れから遂にカルロスは偉大なキューバのコンゴ奏者" アーマンド・ペラッツァ "と
出会い、アーマンドは1972年にSANTANAに加入することになる

「僕には4人の父親がいる」とカルロスは説明する
「父親のホセ・サンタナ、サウンダース・キング、アーマンド、4人目はマイルスかな 彼らは僕の4角を担っている
人たちで、それぞれにとてつもない威厳が感じられる 彼ら自身からにじみ出ているんだね その瞳には輝きも
あり殆どのティーンエイジャーよりも若々しく、生き生きしている 僕は彼らから最高の音楽を学び、その
評価の仕方を学んだんだ」 「酒場で弾こうと、教会で弾こうと、山の中で弾こうと関係なく、あらゆる音楽は
人々を幸福にするものでなければいけないと父から教わった もしそのつもりがないなら止めたほうがいい
B.B.キングからはブルースを学び、彼はサウンダース・キングからそれを学んだ アーマンドからはステージで
疲れた素振りを見せるなとか、疲れたラクダみたいに歩くななどと尊敬と尊厳について多く学んだ そして
マイルスといえば、何時もベストを求め勇気をもって挑んでいくことを否定なく僕らに教えてくれる」
9a9aab_773d0561ebb84a07b987d1576a4e3a4f~mv2
SANTANAの第1期は1966年の中頃、カルロスがジャム・セッションでキーボード奏者のグレッグローリーに
出会ったとき具体化し始めた( ミッション・ハイスクールを出たばかりのカルロスは、ダウンタウン、フリスコの
ティク・タク・ドライブインの食堂で皿洗いをして家賃を稼いでいた )ローリーは5人編成のサンタナ・ブルース
バンドの創立メンバーとなり、カルロスも言っているように、サンフランシスコの「街角や横丁で」
評判を取っていった 1960年半ばには、サンフランシスコは文化の変革の真只中にあった

その母体ともなった以前は無名のハイト・アシュベリーは入り組んだ境界線やゴールデン・ゲート・パークの
緑に隔てられた古めかしいヴィクトリア朝の家に立ち並ぶ労働者階級地区だった
そこには花が咲きフラワーチルドレンががたむろし、バイカーたちが老け込んだ ビートニクス、知識人や
10代の家出人、ディグロー(蛍光着色剤)、アート、LSDのイニシャルでお馴染みの新種の化学薬品に
よって引き起こされるサイケデリックな幻想まであった
白人、黒人、アジアに人たちやインディアンも混ざったこの純粋なボヘミアンたちのコミュニティーは
独自のスタイル、芸術、進歩的政治を生み出し" ヒッピー "という彼ら独自の名前で生まれた

その活動の源が音楽であり、公園、入り組んだ路地、アヴァロンやフィルモアのような忘れられた
そしてそれは、コミュニティ-の集まりやビル・グラハムという好意的な興行主によって頻繁に組織された
チャリティーなどの際の結集力にもなった 彼らのスピリットに従えばその音楽は、ほとんど標準的な
ポップ・フォーマットから外されたものになる
つまり、グレートフル・デットみたいなサイケデリックになるか、スライ&ザ・ファミリー・ストーンのように
ファンキーになるか、ダン・ヒックス&ヒズ・ホット・リックスのように奇抜なものになるかなのだ
9a9aab_57e3b397cab74bd3afe2ddaea4fd09b8~mv2
ただ、SANTANAのメンバーが新聞に自分たちの名を見い出すようになった時には、いわゆる
" サンフランシスコ・サウンド "はその時代を定義するものになりつつあった
「もちろん僕らは本当はヒッピーじゃなかったけどね」と1969年に加入したドラマーのマイケル・シュリーヴは言う
「当時の社会状況以上に僕らは音楽そのものに熱中してたんだ まるで演奏するストリートギャングといった
ところさ それが僕らを際立たせたんじゃないかな」 「バディ・ガイやジュニア・ウェルスといったシカゴのブルース
プレーヤーの演奏を随分耳にした」とカルロスは指摘する 「それに、いわゆるコンガ・サウンドも僕らの音楽には
あった 今でもそのサウンドはアクアティックパークで聴けると思うけど、あそこはいつも15人から20人程度の
コンガ奏者やフルート奏者がいて、人々はワインを飲んだりグラスを吸ったり、町の騒音に対抗してコンガを
叩いたりしている それがSANTANAサウンドの源泉さ アクアティックパークとブルースとだね」

「サンフランシスコ・サウンドがあるとは思えない」とビル・グラハムは付け加える
「ただしそうした意向はあった コミュニティーにとってコンサートが活動の中心となり、知らず知らずのうちに
ミュージシャンがそのリーダーとなった カルロスを始めジャニス・ジョップリン、グレートフル・デッドといった
アーティストたちは進んで皆と生活を共にし、自分の考えを述べた カルロスは今日もコミュニティーで重要な
役を担っている 彼は自分の力を振り回すのではなく、それをいざという時に生かすのだが、そうした表現方法は
ショー・ビジネスの範囲に留まっていないんだ 要するに善人なんだね・・・」

ビル・グラハムがSANTANAを最初に耳にしたのは、1968年に彼らがフィルモアでデビューした時だった
直ぐに彼はファンとなり、遂にはマネージャーの一人となる
その翌年の夏、グラハムはマイケル・ラングがニューヨーク州のベゼルで3日間に渡るミュージック
フェスティバルを組織するのを手伝い、何組かのロック界の大物を手配した
当時のSANTANAはカルロス、ローリー、シュリーヴ、ベーシストのデヴィッド・ブラウン、パーカッションの
マイケル・キャラベロ、ティンバルのチェピート・アリアスという編成で、まだレコーディングの経験もなく
ベイ・エリア以外の地域では無名の存在だったが、グラハムは報酬の代わりに彼らをプログラムに
含めるようラングに頼んだ

それが彼らのキャリアの始まりであり、そのフェスティバルこそ" ウッドストック "なのだ
9a9aab_c2cb331159d3440d87be3bea49151d24~mv2
「どれだけ知れ渡っているかわからないけど、あそこで演奏したときは、ずっとLSDやメスカリンでハイになってたんだ」と
カルロスは笑みを浮かべて当時を振り返る 「クスリをやったのは昼頃さ あそこは災害指定地域で、その晩8時ごろまで
ステージはないはずだったからね だから、そのころまでにシラフに戻れるだろうと判断したんだ ところが僕が
行くなりこう言われた" すぐに出番だ 今すぐ出てもらわないと君たちの出番はないぜ "ってね」

「それで僕は祈りを始めた 祈ったのは2つのことで" 神様、どうかリズムと音を外しませんように "と頼んだんだ」
その祈りは確かに通じたようだった・・・
SANTANAの爆発的演奏がフェスティバルのハイライトとなったのだ 

このアルバムから感じられる絶頂のストローク" ソウル・サクリファイス "は、後に有名なロックドキュメンタリー
映画" ウッドストック "にも収められることになるのだが、それが彼らの評判を確かなものにした
「多くの人がウッドストックのマイナス面ばかり見ようとする」とカルロスは言う
「僕ならまず第一にその美点を取り上げたいね なぜならその理念においても、出来栄えにおいても
あれに匹敵するものはまだない あの頃の僕らは確かに暴力とはかけ離れた意味で力があった
つまり体制を変え、若者をベトナムから連れ戻しニクソンを追い出したんだ そして、それらのことを
成し遂げたこの世代にとってウッドストックはそうした価値観の目標であり、頂点をなすものであり
" 意識革命 "の到達地点でもあった 偽物の口髭、インチキなヒッピーや見せかけの価値を伴った
組織が参入したのはその後のことだ」 「でも禅の教えに、池に水を投げれば水は今も蓮がたっている
というのがある そんなもんじゃないかな 僕は今日のコンサートでもウッドストックの残響を感じている」

それ以来、1971年のオルタモントでの不運なフェスティバルから1983年のUSフェスティバルまでライヴ・エイドや
ジャイアンツ・スタジアムでのアムネスティー・インターナショナル・コンサートから" グラスノチ "、アメリカと
ロシアの文化交流の新たな精神を暗示する1987年のモスクワでの野外フェスティバルまでSANTANAが
何度か歴史あるステージに参加したのは偶然ではない
それはSANTANAがその思想の背後にあるエネルギーを出し惜しみしなかったからであり、またこういった
イベントによってコミュニティ意識が自然に生まれるからである
9a9aab_f340a0ace97742a293e61ab48e399695~mv2_d_1500_1500_s_2-crop
「60年代の頃は政治を避けて通ることはできなかった」とカルロスは言う
「マーティン・ルーサー・キングが撃たれた後、ジェイムス・ブラウンが興奮した人々をなだめるためにテレビで歌って
いるのを一度でも目にすれば、政治と音楽は切り離せないものだということがわかる 今だってスティングや
プリンスまでがそれについて語っている 人々が殺し合いをしている現実を忘れ、ただ単にロックン・ロール
していればいいってもんじゃない 音楽が補足するのは" どんなに反対され、妨害されようと最後まで前進
し続ける "というスピリットなのだ それらが音楽の世界の言語をたらしめるものなのだ」

「音楽には2種類ある」とビル・グラハム
「骨盤から生まれたものと、そうでないものとね カルロスの場合は精神的、かつメンタルでもあるし心の底から生まれた
ものだが同時にいつもノリも大切にしている だからベルグラードからモスクワ、日本、デトロイトまで、どこで演奏
しようと観衆の反応には素晴らしいものがある 私にとってのSANTANAの音楽はウエディング・ミュージックのようなもんだ」

「理屈っぽくならずに済むからライヴのほうが楽しい」とカルロス
「すぐに自動操縦装置の状態になればいいんだ つまりひたすら、心のままに弾くだけだね」
「僕のTシャツにジョン・コルトレーンのについてのがある それには" ルールなんてクソくらえ、大事なのはフィーリングだ "と
書いてあるんだけど、その意味では60年代は蘇ってくると思うね みんな翼を広げて今にも飛び立とうとしてるんだ」
SANTANAにとって60年代後半から70年代初めにかけて有り余る創造性は大きな成功をもたらした
最初の3枚のアルバム( 「サンタナ」「天の守護神」「サンタナⅢ」 )はプラチナ・アルバム、つまり100万枚以上の
売り上げを記録した SANTANAの評判を集めたいくつかの歌やアレンジは( " ジンゴー " " パースエイジョン "
" オエ・コモ・バ " " 新しい世界 " " ネシャブールの出来事 " " ブラック・マジック・ウーマン " )彼らを世界的スターへと導いた

1971年にはギタリストのニール・ショーンの加入でSANTANAはツインギターを編成を打ち出し大ホール向きの
バンドとしてその地位を高めている しかしながら、これら一連の成功にもかかわらずカルロスは不満だった
「ずいぶん泣いたものさ、突然滅入ってしまってね " どうかしちゃったのかい? 母親のために家は買ったばかりだし
アルバムはプラチナに輝くし、人生バラ色じゃないか "って人は言うけど僕は満たされなかった 何かが欠けていたんだ
ウッドストックの後、どう見ても状況が変わったんだと思う 僕らは確かに人気があったがジャニス・ジョップリン
ジミ・ヘンドリックス、ジム・モリソンなど一緒に育ってきた身近な人々が次々に死んでいき、僕の何人かの友達も
そんなふうにしてこの世を去ってしまった つまり僕らにはそういう道をたどるか、あるいはジョン・コルトレーンや
マハヴィシュヌのように東洋の宗教にのめりこむしかなく、その中間というのがなかったんだ ファンにおもねることも
できるけどね でもコルトレーンやアレサが歌う" アメージング・グレース "はまさに心の慰めになったよ」

カルロスの精神的成長は、驚異的ソロイストであるジョン・コルトレーンの音楽への興味につながった
彼は" イヴィル・ウェイズ "のようなポップ・ヒットよりも、コルトレーンの曲のほうがずっと音楽的に自由な主題と構成を
持っているように思えたのだ そこでまず最初にSANTANAはその二つの音楽的方向を結び付けようとした
" ネシャブールの出来事 "はその素晴らしい結合の例だが、カルロスはそれでも飽き足らなかった

「こう言いたいんだ" ヘイ、これらのプラチナ・アルバムはただの無意味なものじゃないんだ でも僕らは何を言わんと
しているのだろうか? "」 だがSANTANAの全員が同じヴィジョンを抱いていたわけではなかった
グレッグ・ローリーにとっては「そういう音楽的方向にいきたくなかった 僕はSANTANAのロックン・ロール面が好きだったし
ジャズのそういった分野には関わりたくなかった つまり僕にはそれだけの魅力がなかったってわけだ そのことについては
よく喧嘩したよ」 この食い違いがバンドを分裂させることになった
9a9aab_bfee414f045f45448c40abd56af447b1~mv29a9aab_ff8f1b59bb5c4511afee69c0f817de3a~mv2
ローリーとショーンはJOURNEYを結成、カルロスとマイケル・シュリーヴは新しいジャズ色の強いSANTANAを築いた
「キャラヴァンサライ」「ウェルカム」の2枚の力作は彼らのヴィジョンへの声明を実現させたものである( 美しい
" 風は歌う "はこのコレクションに含まれている ) また、「キャラヴァンサライ」は、健康問題のためグループを離れていた
チェピート・アリアスのグループ復帰を記念するものであり、このアルバムをカルロスから捧げられたコンガ奏者
アーマンド・ペラッツァを紹介するものであった

「彼がカル・シェイダーと共演していたころ、サンフランシスコのブロードウェイにあるマタドール・クラブによく聴きに
行ったものさ」とカルロスは語る 「そうしたら顔見知りになる前に彼もフィルモアで僕らを聴いていたそうだ
出会ってからは、彼はまるで僕を養子にしたみたいに可愛がってくれた 彼は生命力の溢れた男で、演奏しているとき
彼のチャクラ( 太陽が支配者を象徴する輪 )が公然と輝いて見える パパ・ジョー・ジョーンズも同じ感動を味わっていたね」

「彼はまた音楽の生き字引でもあるんだ でもね」カルロスは笑いながらこう言う
「学ぼうとする熱意と時間がなければ、彼と口をきくべきじゃないね だってアーマンドは本当に真剣なんだ 彼は顔を
摺り寄せて、人の胸に手を当て納得させてしまう 彼は偉大なる牧師、僕らはみんな彼に感謝しているよ」
「今のティンバル奏者の多くは、まるで友情を壊さないと乗れないといった感じ___つまり怒った状態でないといい演奏が
できないみたいだが、チェピートはいつだってすぐプレイをすることができた 彼はニューヨークのティンバル奏者のように
歴史についても知らないが、本当に大事なのは、何かに攻めかかるときは牙がいかに鋭いかということだ もし観衆の
内なるエネルギーに火をつけ彼らが興奮して帰路につくとすればそれでいいわけさ」

SANTANAのジャズ探求はフィル・フォード、デイヴ・ホランド、ジャック・ディジョネットといったジャズ界の
リーダーたちをフィーチャーした、1974年のアリス・コルトレーンとのソロ・アルバム「イルミネーションズ」で
頂点に達した そしてその1年後、SANTANAは不意にアルバム「アミーゴ」と、そこからの歌" ダンス・シスター
ダンス "でポップ・メインストリームに戻った また、このアルバムには印象的なインストゥルメンタルナンバー
" 哀愁のヨーロッパ "も含まれており、この曲はカルロスのメロディの感性の豊かさを示すものとして
また、起伏にとんだソロの即興の見せ場として、しばしばコンサートで演奏されている

それ以後10年間SANTANAの音楽性はほとんどの場合、印象主義的な情景( 例えば" ホンコン・ブルース " )と
もっとダンサンブルでポップなノリの曲( ゾンビーズの60年代のスタンダード" シーズ・ノット・ゼア "の工夫に
富んだリメイク )との2種類に分けられる

その後に続いたカルロスのソロ・プロジェクトには、ファビュラス・サンダーバーズとの合作、60年代半ばの
マイルス・デイビス・クインテッドのお馴染みのメンバーたち( トニー・ウィリアムズ、ハービー・ハンコック
ロン・カーター、ウェイン・ショーター )との共演盤「スウィング・オブ・ディライト」がある
マイルス・デイビスの代わりを勤めるのは大きな挑戦だったが、結局このアルバムがジャズ誌のダウンヒートで
5つ星を得たのは、彼が師の教えをいかに良く吸収していたかを示すものである

彼は依然として" 勇気あるチャレンジャー "なのだ
9a9aab_82d9204793384780b4c7d46296f94727~mv2
カルロスは正当な評価を得ていない、少なくとも大きな影響を持つギタリスト、国際級のバンドとしての評価が足りて
ないという人もいる 彼の謙虚さと自分自身の売り込みがあまり得意でないことが、その一つの理由だろう

そしてSANTANAの頻繁な音楽性の変化とメンバーチェンジの変化( バンドのオリジナルメンバーはもちろんのこと
ニール・ショーン、コーク・エスコヴェート、ウィリー・ボボ、バディ・マイルズ、ジェームズ・ミンゴ・ルイス、トム・コスター
レオン・トーマス、レオン・チャンクラー、アルフォンソ・ジョンソン、グレッグ・ウォーカー、アレックス・リガーウッド
レオン・パティロ、ピート・エスコヴェート、オレステス・ヴィラート、デヴィッド・サンシャウス、そしてチェスター・
トンプソンといったメンバーたちの去就を年代順に追っていくだけでも一冊のエッセーができるだろう )が、おそらく
もう一つの理由だ だがしかし、SANTANAのキャリアについて派手に騒がれるという認識は、あてにならないものでもある

例えば、80年代を代表するポップ・ミュージシャンといわれるプリンスは、主な影響を受けた人にカルロスの名を
挙げているのだ そして" ラ・バンバ "( カルロスが音楽を担当している )のブームの結果、1958年のリッチー・
ヴァレンスのヴァージョンと、1987年のロス・ロボスのエネルギッシュなリメイクまでの間に、絶えずポップ・チャートに
顔を出していたラテン系のグループ および アーティストはSANTANAだけなのである
しかも彼らは9枚ものプラチナ・アルバムを産んだのだ

カルロスは20万人のファンを迎え、サンフランシスコでも特にラテン系の多いミッション地区でメインスタートして
出場したステージに特別な満足感を覚えているという
「もしウッドストックやモンタレーがひとつの大きなムーヴメントだったとしたら、これは僕にとってスペイン語を話す人々が
結集したもう一つのムーヴメントの始まりのような気がする 僕はいつも自分の音楽を" てこ "であると言っているけど
ラテン社会に限りない可能性に向け目覚めるための" てこ "となりたいんだ 国際人として僕はある程度の責任があり
例えば人々に自分の価値を気づかせたり、前向きの一体感を与えたり、ギャングの緊密なつながりを断ち切ったり
しなければならない 僕らは僕らの子供たちの、そのまた子供たちに扉を開けてやりたい 僕はそう考えているんだ」
9a9aab_aa8f3122ef3b410eb4bb0a5abfa09b16~mv2
「 VIVA SANTANA! 」は彼らの回答であると同時に始まりを示すものだ

カルロスはグレッグ・ローリー、マイケル・シュリーヴ、チェピート・アリアスといったかつての仲間たちと一時的な再共演を
行った カルロスはその時のことをこう語る「あまりにも素晴らしい演奏だったんで、バンドのほかのメンバーから" 君たちは
独自のマジックがある 演奏し始めた瞬間から、じっと聴き惚れてしまった "と言われたんだ」
「まるで10年というより、たった1週間離れていただけみたいな感じだった」とマイケル・シュリーヴ
「一緒に8~9時間練習した後で、初めてその日全員が朝食さえとってなかったことに気づいたんだ」とグレッグ・ローリーは
振り返る 「共演したその音は、未だに昔とほとんど変わらないものだった お互いが補い合っていたからね」

カルロスのソロ・アルバム「サルヴァドールにブルースを」とジャズ・サキソフォン奏者のウェイン・ショーターを迎えた
1988年のバンドのサマー・ツアーからも分かるようにカルロスは再び予測可能な音楽分野に分け入ろうとしている

そしてSANTANAの20周年を記念したこのアルバムの発表は、アルフォンソ・ジョンソン、デューン・チャンクラー
チェスター・トンプソンといった最近の仲間たちと、グレッグ、マイケル、チェピート、アーマンドといったかつての仲間を
含めたバンドのコンサート・ツアーと時を同じくするものでもある
9a9aab_17bedb3cbaf84003881a9b7822c789f2~mv2
「これはお祝いでもあり、追って通知があるまでの" 締め "でもあるんだ」とカルロス
「" Carlos SantanaとグループのSANTANAとどっちが楽しいか "とよく聞かれる 以前はいつもクォーターバックで
いながらも、チームの一員でありたいと思ったけど、今は貪欲になったわけじゃないが自分自身の考えを持つのが
楽しいんだ コマーシャリズムも別に悪い言葉ではない でも、むしろ僕はハイ・テクを駆使したビックヒットよりも、明日の
朝ナヴォホ族がすることに耳を傾けたい 僕は将来" ブラック・マジック・ウーマン "や" ジンゴー "をただ機械的に
演奏したいとは思わない 変化を望んでいるという点では、僕以外の大勢の人たちも同じだと思うよ」

「先日ビル・グラハムにも言ったんだよ なんだかまたミッション・ハイスクールを出たような気分だね ミッションでは
あまり多くのことを学ばなかった むしろフィルモア・ウェストで学んだという気がする あそこへ行ってマイルス、
ローラ・ニーロ、ガボール・サボ、ユセフ・ラティーフなどに耳を傾けていたんだ あそこが僕の教育の場さ
僕がやりたいのはそれ、つまり自分の音楽をプレイすることだ 人々には分類しづらい音楽だけどね 最初は
" サイケデリック・マリアッチ・ロック "などと呼ばれたこともあった」

カルロスは笑みを浮かべる「 でも定着はしなかったね 」
「僕の結論は、この世に悪貨も多いが、また良貨も多いということだね ジョン・コルトレーンやマーティン・ルーサー・キングには
本当に感謝している " 君は何をして生きていくつもりだい、何を約束してくれるんだい? "
彼らは僕らにそう語りかけてくれた人なんだ」

「 いつもこう言う人がいるだろう" よせよ、ただのロックン・ローラーじゃないか "ってね
でも遅かれ早かれ秘とは何かを真剣に考えなければいけないものなのさ・・・ 」
9a9aab_1d406d406d674574979863b5069558d1~mv2_d_2285_2346_s_2